「目を…目を開けて……」


すべてが白濁していく中

誰かの掠れた、祈りだけが聞こえた













 君 が  き て い る と い う だ け で 















白い壁

白い天井

白いシーツ、連立するベット

揺れるカーテンと そして鼻腔を刺激する、独特のにおい



ここは病院

そして数個ある中の病室の一室 ベッド前の丸椅子に腰掛けて


――そう、そうだった

自分は此処に居る訳で。

なのにどうしてこんなにも意識がハッキリとしないのだろう











「…ぅ……」


体をピクリとさせ、知らないうちに前かがみになった上半身を

緩慢な動作で立て直そうと元に戻す。

どうやら意識がハッキリしないのは居眠りしていたからのようで

頭がぼーっとして目がしょぼしょぼした。




「…寝ちゃダメだ…」


手のひらで顔を強く擦って息をついた。

自分はどのくらい、まどろんでいたんだ?








「…


頭を上げて、目の前のベッドに視線を向けた。

そこには、真っ白いシーツに横たわる目を瞑ったままの怪我人

――年の頃はまだ少女という感じか。

それとも、眠っている姿が彼女を真実よりも幼く見えさせるのか。


上に掛かってる布団で見えないが

ほぼ全身に撒かれた包帯が彼女の傷の悲惨さを物語っていた。

見える部分では頭にも怪我があるようで、止血の為包帯が重なり巻かれている。


こうやって横たわっていると、まるで呼吸をしていないようで

実際、医者にはこれで生きていたのが奇跡だと言われるくらいだった。



盛り上がる滑らかな曲線は静止しているように見えた。

重い布団の所為か

彼女の弱い呼吸所為か、胸が上下しているか判断出来ない。

青白い顔

真っ白で ただ真っ白で

この白と静寂がまるでまるで彼女が



彼女がもう死んでるみたいに見え―――…









そこまで考えて、背筋が凍った。


何考えてる

――最悪だ…。


恐怖が、びしびしと霜を張るように体中を麻痺させる。



そうだった、自分はさっき寝てしまっていたのだ。

それが数分であれ数時間であれ――――彼女にとっては一秒でも猶予がない。

今、生死を彷徨っているのだから。


言われようの無い恐怖と、取り返しの付かないことをしたのではないかという思いに

思考が瞬く間に支配された。







「…?」


震えて上手く声が出せない。

焦りと祈りと、罪悪感

――もし、もし自分が寝てる間に彼女が逝ってしまったら。


搾り出して名前を呼んでみたけど、ここに運ばれてきてからと同じ無反応だった。





「…?」


もう一度、今度は声帯を強く震わせて呼んでみる。

さっきと同じ。


もしかして、彼女はもうここに来た時から死んでいたのでは?

みんな、自分を騙す為に演技してるだけなのでは?


あの医者も、看護婦も――

自分の前では”フリ”してるだけなんじゃ?

…だから此処には自分と彼女しか居ないんだ。広い病室なのに。




―――じゃぁ、これは 屍か?









震える手で彼女の手を探した。

そして恐る恐る触れて、確かめる。



……まだ、温かい……。



そのまま手のひらと手首を自分の耳に押し当てた。



… クン … クン … クン … クン …



聞こえる。

今にも消え入りそうな、弱いけど確かに皮膚の下から波打つように感じる

生きる意志

それと一緒に体内を流れる血流の音が、こーっとノイズのように聞こえた。


温かい…今にも…消えそうだけど………でも確かに…







…生きてる…














「……生きてるっ…」



唐突に、視界が滲んだ。

そして温かな筋が頬をなぞる。それは瞬く間に幾重にも重なり、大粒へと変化していく。

溢れ出したら、全てが流れ出してしまうような感覚。

苦しい、でも嬉しい…

安堵感 分からない


だけど








いつか彼女が言っていた事を思い出した。

「ただ生きてるだけだ」って

そう、笑いながら言っていたっけ。

―――寂しそうな、悲しそうな…そんなような顔で


彼女が泣いているように見えて、気付かれないようにそっと盗み見た。

だけど次の瞬間には元に戻っていて。


結局何も言えなかった。…何も…。














だけど

今なら言える

今なら 今彼女が、眼を開けて自分を見て微笑んでくれたなら

優しく、微笑んでくれたなら





こんなにも彼女が生きてることで、胸が苦しくなる事を

切ないリズムが響いて…その脈が、心の一番奥の繊細な部分を震わせる事を

ただ、ただ生きているだけで

そう、ただ君が呼吸をしているだけで




――嬉しい? 悲しい? 分からない。





人が生きていることに…

―――彼女が、生きているという事に

心が震えて、涙が出る事に

意味とか理由とか理屈なんて、必要ない。


そう、思ったから。






















トクン…トクン…トクン…




弱弱しく、静かに響くこの音

いつの間にか自分の涙は彼女の腕にまで伝わって、水滴が出来ていた。





「聞こえるよ……ほら…の…命の、燃える音…」

「………」

「ただ君が…生きてるだけでいい…それだけでいい」


「僕の傍にいてよ…これからもずっと…」

永遠なんてない。いつかは確実なる別れが来て、君の手を離す時が来る

「ずっと……それだけでいいよ…それだけで…」

僕たちは今戦っていて、それが十数年後の平穏の中じゃなく

明日、明後日、再来週の事かもしれない

でも 今




「…が生きてるだけで僕は…」





















ずっと、下を向いて彼女の腕とシーツを眺めていた視線を

眼を瞑って眠っている顔へと移動した。


すると閉じていると思っていた瞳が、薄っすらと開かれていて

静かに自分を見据えている事に気付いた。

―はっと、息を呑む。



一瞬、時が止まったような気がした。

見間違いかと思って、涙でぐしゃぐしゃの目を乱暴に擦った。

腫れぼったい、熱い瞼を上げて彼女を見る。


目が合って、自分が何かを言うよりも、彼女の口が動き始める方が早かった。


そして確かに聞こえた。

声は出なかったけど、ゆっくりと口がそう紡いだのを見た。












 あ り が と う 














にっこりと微笑みながら、彼女は自分を見つめる。














 あ り が と う 
















視界が歪んだ。わっと、溢れる感情が。

それすらもどうでもいいように、自分も笑った。


言葉はもう何処にも無かった。









自分のすすり泣く音と、愛おしさに満ちた穏やかな視線だけがこの部屋を満たし

世界を闇へと緩やかに変える










君が生きているということだけで 僕は





















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”体温”を聴いていたらできました。
時々誰かが居なくなることを考えて無性に
『そこに居るだけでいい、そこに居て』って思うことがあります。


ここまで読んで下さったさん、ありがとうございました。



2005.7.23